ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論(デヴィット・グレーバー)

  • まるで何者かが、わたしたちすべてを働かせつづけるためだけに、無意味な仕事を世の中にでっちあげているかのようなのだ。
  • ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。
  • ブルシット・ジョブはたいてい、とても実入りがよく、きわめて優秀な労働条件のもとにある。ただ、その仕事に意味がないだけである。シット・ジョブはふつう、ブルシットなものではまったくない。つまり、シット・ジョブは一般的には、だれかがなすべき仕事とか、はっきりと社会を益する仕事にかかわっている。ただ、その仕事をする労働者への報酬や処遇がぞんざいなだけである。

日本共産党「革命」を夢見た100年(中北浩爾)

  • 日本共産党は1922年の結成以来、100年後の現在に至るまで、大きく変貌した。最も重要なのは、第一にソ連共産党に対する従属から自主独立路線への転換であり、第二に暴力革命路線から平和革命路線への変化である。
  • 日本共産党コミンテルンの日本支部として結成された。コミンテルンは・・・1919年に設立された共産主義者の世界等であり、各国共産党は・・・その支部として位置づけられた。
  • ロシア革命を成功させ、世界で初めての社会主義国家を樹立したという現実の重みゆえに、ソ連共産党が実質的に指導するコミンテルンの権威は圧倒的であった。マルクス・レーニン主義というイデオロギーも、民主集中制という組織原則も、ソ連共産党からの輸入品である。
  • 1960年代に入ってソ連と中国の対立が激化すると、日本共産党は1961年綱領に基づいて、まずアメリカ帝国主義に妥協的な姿勢を示すソ連と衝突し、次いで武装闘争方針を示唆した中国と決裂する。このようにして、・・・自主独立路線が確立した。その背景には宮本顕治書記長の下で大衆的な党組織の建設が進み、・・・
  • 現在、日本共産党が20世紀の構造変化と考えているのは、社会主義体制の広がりではなく、植民地体制の崩壊、民主主義と人権の発達、平和の国際秩序の発展の三つである。
  • 革命とは被支配階級が支配階級を打倒して国家権力を掌握することであるが、ウラジーミル・レーニンが1917年の著書「国家と革命」で暴力革命を唱え、武装蜂起によってロシア革命(10月革命)を実現したことから、共産主義は元来、暴力革命論に立脚する。
  • 1966年綱領では平和革命について明確な表現を避け、・・・平和的な方法で革命を実現するのが望ましいと断りつつ、どういう方法が実際にとられるかは「敵の出方」によって決まるという考えを提示した。
  • ソ連の崩壊を経て、2004年綱領は、・・・国会で安定した過半数を占めることで革命を実現すると表明し、平和革命路線を明確に示した。
  • 革命戦略についても変化がみられる。その前提として、まず変わらない部分を述べておきたい。それは日本が当面、目指すべき革命の内容として民主主義革命を位置づけ、そのあとに社会主義革命を実現するという、二段階革命論をほぼ一貫して採用してきたことである。
  • 現在の綱領をみると、民主的改革の内容は比較的穏健である。経済分野では、・・・資本主義の枠内での「ルールある経済社会」が打ち出され、大企業の民主的規制や社会的責任、国民の生活と権利の用語、社会保障制度の拡充、無駄な大型公共事業や軍事費優先の財政・経済運営からの転換、原発ゼロなどが掲げられている。憲法と民主主知の分野でも、護憲や平和的民主的諸条項の完全実施、人権の充実やジェンダー平等が盛り込まれ、天皇制については護憲の立場から事実上容認し、・・・最も急進的な内容を持つのは、外交・安全保障分野であり、日米安保条約を廃棄して在日米軍を撤退させること、国際情勢を踏まえつつ国民の合意に従って自衛隊の解消に向かうことなどが打ち出されている。
  • 日本共産党社会主義革命を遠い将来の課題に先送りしつつ、民主主義革命(民族民主革命)の実現を現在も目標としている。

ビジネス教養としての半導体(高乗正行)

  • 半導体とはもともと、電気を通す導体と電気を通さない絶縁体の中間的な性質をもつ物質を意味します。
  • 半導体の一つであるシリコンなどを材料にして作られたトランジスタのほか、トランジスタコンデンサ(電気を蓄える電子部品)、抵抗器(電流の流れを妨げる部品)などをまとめることで機能をもたせた集積回路(IC)、LED(発光ダイオード)やセンサのようなIC以外の機能をもった部品や素子(電気回路の構成要素)を慣例的に「半導体」と呼んでいるのです。
  • ビジネスにおいて半導体を語る際には、それが半導体の材料を意味しているのか、トランジスタやIC、センサのような機能をもった素子やデバイスを意味しているのかを整理しておく必要があります。
  • デジタル半導体・・・データの演算処理やデータの記憶を行う半導体。人間でいうところの「頭脳」や「記憶」のような働きをもつ。メモリ、ロジック、マイクロなど
  • アナログ半導体・・・時間軸上で連続的に変化する電気信号のまま処理、制御する半導体のこと
  • センサ・・・現実世界の物理量や化学量を検知し、電気信号に変換して出力する。人間でいう「五感」の機能を果たし、温度・圧力・加速度などを測定するセンサがある。
  • パワー半導体・・・「集積回路(IC)」ではなく「ディスクリート(個別半導体)」に分類され、取り扱える電力(電流と電圧)が比較的大きい半導体のこと
  • 設計工程・・・回路設計、パターン(レイアウト)設計、フォトマスク作成の3つに分かれる
  • 前工程・・・シリコンウェーハ―製造から始まります。・・・成膜、露光・パターン転写、エッチングという3つプロセスを繰り返しながら半導体回路を作りこみます。
  • 後工程・・・設計工程で内部の回路を設計し、前工程で半導体の回路そのものを作り上げ、後工程で半導体として使用できる形に組み立てているのです。
  • 垂直統合型と水扁分業型
  • 水平分業において設計専門の会社を「ファブレス企業」。前工程を担う製造専門の企業を「ファウンドリ企業」、後工程を担う会社を「OSAT(outsourced semiconductor assembly and test)といいます。
  • 現在、半導体市場は・・・およそ72兆円にものぼります。・・・今もなお1年で10%近い成長を続けています。2022年現在、これほど大きな売上にもかかわらず、10%を超える成長を果たしている市場はほかにはありません。
  • 半導体はあらゆるものに使われています。電気で動くものには基本的に半導体が使われている・・・今後半導体需要を伸ばしていくキーポイントは、この「あらゆるものに使われている」という部分
  • 自動運転の実現・・・今まではパソコンやスマートフォン・・・今後は自動車がその立場
  • 半導体の製造に求められる技術が高度で設備が高額になる
  • 半導体そのものも、半導体の製造技術もまだ発達の途中にある
  • 2022年現在、日本が半導体に関わる分野で世界の最先端を走っているものは残念ながらありません。さらに日本のIT人材のレベルは世界に比べて低いという結果

置かれた場所で咲きなさい(渡辺和子)

  • 結婚しても、就職しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきます。そんな時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです。
  • 「置かれたところ」は、つらい立場、理不尽、不条理な仕打ち、憎しみの的であるときもあることでしょう。信じていた人の裏切りも、その一つです。
  • 境遇を選ぶことはできないが、生き方を選ぶことはできる。「現在」というかけがえのない時間を精一杯生きよう。
  • 結果がよかった時は、人の功績に。悪かった時は、自分が悪者となる。
  • 委ねるに際しては、相手を信頼しなければいけないということでした。二つ目は、委ねるということは、決して”丸投げ”することではなく、要所要所でチェックをして、委ねっぱなしでないことを相手にもわからせるということ。
  • 自分が積極的に動いて、初めて幸せを手に入れることができるのだという真理です。便利さを追い求め、面倒なことを嫌いがちな現代の忘れ物の一つは、自分が動くこと、そして世の中を明るくしゆこうという積極性なのです。
  • 自分の欲望にばかり振り回されてはいけない。自分がしてほしいことを、人に与えなさい。
  • 「きれいさ」はお金で買えます。美しさは買えません。それは、自分の生き方の気高さ、抑制ある態度、他人への思いやりの深さ、つまり、心の輝きとして培われてゆくものなのです。
  • ・・・子どもを連れた母親が、水道工事をしている人たちのそばを通り・・・「おじさんたちが、こうして働いていてくださるおかげで、・・おいしいお水が飲める・・・」・・・別の母親・・・「勉強しないと、こういうお仕事をしないといけなくなるのよ。」価値観はこのようにして、親から子供に伝えられることがあるのです。
  • 思わぬ不幸な出来事や失敗から、本当に大切なことに気付くことがある。
  • 苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。
  • ”あなたが大切だ”と誰かにいってもらえるだけで、生きてゆける。人は皆、愛情に飢えている。存在を認められるだけで、人はもっと強くなれる。
  • 自分のいのちに意味を与えることで、苦しい状況でも生きてゆくことができる。人は「愛する人のために行きたい」と、思うことでより強くなれる。愛は生きる原動力。
  • 一生の終わりに残るものは、我々が集めたものでなく、我々が与えたものだ。
  • 迷った時は、「選択する自由」を与えられたと思って、プラスとマイナスを書き出し、その重みによって決める。
  • 目立たない仕事をしている人へのあいさつを忘れてはいけない。私たちはお互いに「おかげさま」で生きているのだから。
  • 大切なのは「人のために進んで何かをする」こと。「人に迷惑をかけない」からもう一歩進んで、「手を差し伸べる」気持ちが愛の実践につながる。
  • 相手を生かすぬくもりのある言葉を使える自分でありたい。言葉ほど恐ろしいものはない。使い方を間違えれば凶器にもなる。言葉を無機質なものにしてはいけない。

それをお金で買いますか 市場主義の限界(マイケル・サンデル)

  • われわれは、ほぼあらゆるものが売買される時代にいきている。過去30年にわたり、市場ーおよび市場価値ーが、かつてないほど生活を支配するようになってきた。
  • こんにち、売買の論値はもはや物的財貨だけに当てはまるものではなく、生活全体を支配するようになっている。そろそろ、こんな生き方がしたいのかどうかを問うべき時がきているのだ。
  • 生きていくうえで大切なもののなかには、商品になると腐敗したり堕落したりするものがあるということだ。
  • 問題となる善ー健康、教育、家庭生活、自然、芸術、市民の義務などーの価値をどう測るべきかを決めなければならない。これらは道徳的・政治的な問題であり、単なる経済問題ではない。

マルクス 資本論(佐々木 隆治)

  • 近代社会の経済運動法則を暴露することがこの著作の最終目的である。
  • 商品体の使用価値を度外視すれば、商品体に残っているものは、ただ労働生産物という属性だけである。
  • あらゆる労働は、一面では、生理学的意味での人間の労働力の支出であり、そしてこの同等な人間的労働あるいは抽象的人間的労働という属性においてそれは価値を形成する。あらゆる労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間の労働力の支出であり、そしてこの具体的な有用労働という属性においてそれは使用価値を生産する。
  • 商品形態は、人間たちにたいして、彼ら自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として、これらの物の社会的な自然属性として反映し、したがってまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係をも彼らの外部に存在する諸対象の社会的関係として反映するということである。このような置き換えによって労働生産物は商品になり、感性的で超感性的な物、または社会的な物になるのである。
  • ここでは、人間の頭の産物が、それ自身の生命を与えられて、それら自身のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ自律的な姿に見える。同様に、商品世界では人間の手の生産物がそう見える。これを私は物神崇拝と呼ぶ
  • 抽象的人間的労働の社会的性格を商品の価値に表示することによって、この社会的総労働の配分を無自覚のうちに行っているのです。・・・資本主義社会では、人々がとりむすぶ社会関係は「人格と人格とが自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ人格と人格との物象的な諸関係および物象と物象との社会的な諸関係として現れる」ことになります。・・・人格的関係が物象的関係として現れる事態のことを「物象化」と呼びます。
  • 物象化という事態においては、人間に代わって物象が社会的力をもち、物象の運動ー言い換えれば市場メカニズムの運動ーによって人間たちが制御されるという転倒が現実に成立しています。すなわち、私的生産者たちの行為の総体が生み出した物象の運動が、個々の私的生産者の行為を制御するという逆説的な関係が現実に成立しているのです。
  • 第一章では、私的労働をするかぎり、私的生産者たちの意志や欲望とは関わりなく、必然的に商品形態や価値形態が成立し、人間が物象を制御するのではなく、物象が人間を制御するという物象化が発生することが明らかにされました。
  • 第二章では、・・・意志と欲望をもつ人格が商品や貨幣などの物象の人格的担い手となって行為するようになることを、「物象の人格化」と言います。・・・人々の側が物象の論理に影響をうけ、意志や欲望のあり方を変化させられてしまうからです。・・・つまり、所有という占有の社会的承認のあり方、そのような承認をもたらす意志のあり方が物象の力に依存するものになってしまっているのです。
  • 商品の価値量は、社会的労働時間にたいする必然的な、その商品の形成過程に内在する関係を表している。・・・価値量以上または以下も表現されうる。だから、価格と価値量との量的な不一致の可能性、または価値量からの価格の偏差の可能性は、価格形態そのもののうちにあるのである。・・・そこでは原則がただ無原則性の盲目的に作用する平均法則としてのみ貫かれうるような生産様式の適当な形態にするのである。
  • 価格がおよそ価値表現ではなくなるという矛盾を宿すことができる。それ自体としては商品ではないもの、例えば良心や名誉などは、その所有者が貨幣とひきかえに売ることのできるものであり、こうしてその価格をつうじて商品形態を受け取ることができる。それゆえ、ある物は、価値を持つことなしに、形式的に価格をもつことができるのである。
  • 貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現れるのである。
  • 貨幣は直接的交換可能性をもっている特別な物象ですから、貨幣所有者の「買おう」という意志なしには売買は行われません。・・・貨幣を購買手段として用いることによって、売買が成立し、その結果として商品が流通する、という外観が成立するのです。このような商品流通の外観にとらわれると、市場に貨幣を流通させることによって商品流通を活性化することができるかのような幻想に陥ることになります。じっさいには、どれほど貨幣が強力な力をもっていようと、それが流通するのは、つねに現実の生産活動と消費活動の結果に過ぎないのです。・・・商品流通をその経済的実体から切り離し、貨幣の力によって思うがままに動かせるものだと考えるのもまた誤りだということになります。
  • 流通手段の量は、流通する商品の価格総額と貨幣流通の平均速度とによって規定されているという法則・・・諸商品の価値総額とその変態の平均速度とが与えられていれば、流通する貨幣または貨幣材料の量は、それ自身の価値によって定まる。
  • ・・・現代では「貨幣数量説」と呼ばれており、市場に流通させる貨幣量を調整することにより、インフレにしたり、デフレにしたりすることができると考えます。・・・「リフレ論」(貨幣を大量に供給することにより、人々のインフレ期待を高め、経済活動を活性化させるというもの)も、この「貨幣数量説」の変種にすぎません。・・・貨幣流通は、商品流通の結果であり、生産活動や消費活動じたいが活性化しなければ商品流通は活性化せず、したがって、流通貨幣量も増大新線。実体経済と無関係に流通貨幣量を増大させ、経済活動を活性化するのは不可能なのです。
  • 強制通用力をもつ紙幣・・・を発行する国家の介入は、経済法則〔流通貨幣量の法則〕を廃棄するように見える。・・・しかし、国家のこのような権力は、単なる見せかけにすぎない。国家は任意の鋳貨名をもつ任意の量の紙券を流通に投げ込むことはできるであろうが、・・・流通に巻き込まれると、価値章標または紙幣は、流通に内在する諸法則に支配されるのである。
  • 中央銀行がどんどん銀行券を刷り、国にお金を貸すことによって、増税なしに財政難を解決できるというようなことを主張する人々がいますが、・・・中央銀行券が代理できる金量ないし価値量が減少する以外には購買力(価値)が発生する道筋はなく、・・・国家によっても無から有を生みだすことはできないのです。
  • 現代の高度な信用システムもやはり、・・・実体経済と無関係に信用を拡大し続けたり、信用制度の力によって実体経済を思うがままに動かすことはやはり不可能なのです。
  • 商品生産と、発達した商品流通すなわち商業とは、資本が成立するための歴史的な前提をなしている。・・・われわれはこの過程の最後の産物そちて貨幣を見出す。この商品流通の最後の産物は、資本の最初の減少形態である。
  • 人格的な隷属・支配関係を基礎とする土地所有の権力と貨幣の非人格的な権力との対立は、・・・「領主のない土地はない」。「貨幣に主人はない」。
  • この過程の完全な形態は、GーWーG”であり、ここではG”=G+△Gである。すなわちG”は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しい。この増加分、または最初の価値を超える超過分を、私は剰余価値と呼ぶ。
  • それゆえ、最初に前貸しされた価値は、柳津のなかでただ自分を保存するだけではなく、そのなかで自分の価値量を変え、剰余価値をつけ加えるのであり、言い換えれば自己を増殖する。そして、この運動がこの価値を資本に転嫁させるのである。
  • 販売のための購買では、始めも終わりも同じもの、貨幣、交換価値であり、すでにこのことによってもこの運動は無限である。・・・・・単純な商品流通、購買のための販売は、流通の外にある最終目的、使用価値の取得、欲望の充足のための手段として役だつ。これにたいして、資本としての貨幣の流通は自己目的である。というのは、価値の増殖は、ただこの絶えず更新される運動のなかだけに存在するからである。それだから、資本の運動には限度がないのである。
  • この運動の意識ある担い手として、貨幣所持者は資本家になる。・・・あの流通の客観的内容ー価値の増殖ーが彼の主観的目的なのであって、ただ抽象的な富をますます多く取得することが彼の捜査の唯一の推進的動機であるかぎりでのみ、彼は資本家として、または人格化され意志と意識とを与えられた資本として、機能するのである。
  • より賢明な資本家は、貨幣を絶えず繰り返し流通に投げ込むことによって、それを成し遂げるのである。
  • 労働力が商品になるには、・・・奴隷制封建制などの人格的従属関係から、「解放」されている必要がある・・・他方では、前近代的共同体から「自由」になることにより、多くの場合、彼らは自分の生活手段(生活に必要なもの)を生産するための生産手段(生産に必要なもの)からも「解放」されます。すなわち、それを失ってしまいます。そのため、生活手段もまた、自前で生産して入手することができなくなってしまいます。・・・労働者たちは、自分が所持している労働能力を商品として販売することを強制されるのです。
  • 「労働」は、何よりもまず、人間と自然とのあいだの「過程」、すなわち人間が自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御する一過程である。
  • 労働過程は、資本家による労働力の消費過程として行われるものとしては、二つの特有な現象を示している。労働者は資本家の監督のもとに労働し、彼の労働はこの資本家に属している。・・・第二に、生産物は資本家の所有物であって、直接的生産者である労働者のものではない。
  • 資本家は労働力を買い、それを消費することによって、労働力の購買に必要であった価値よりも多くの価値を生産し、すなわち剰余価値を生み出し、それを取得することができます。このように、資本家は、商品生産から発生する所有権にしたがって、まったくの正当性を失うことなしに、剰余価値を生産し、貨幣を資本に転化することができるのです。
  • 資本による生産過程、すなわち資本主義的生産過程はなによりもまず、価値増殖過程であることが明らかになりました。このように、剰余価値の生産を目的とした生産のあり方のことを「資本主義的生産様式」と言います。
  • 資本にはただ一つの生活衝動があるだけである。すなわち、自分を価値増殖し、剰余価値を創造し、自分の不変部分、生産手段でできるだけ多量の剰余労働を吸収しようとする衝動である。
  • 労働者が労働する時間は、資本家が自分の買った労働力を消費する時間である。もし労働者が自分の処分可能な時間を自分自身のために消費するならば、彼は資本家のものを盗むわけである。
  • ぼくは標準労働日を要求する。なぜならば、ほかの売り手がみなやるように、ぼくも自分の商品の価値を要求するからだ。
  • どちらも等しく商品交換の法則によって確認された権利対権利である。同等な権利と権利とのあいだでは力がことを決する。・・・資本主義的生産の歴史では、労働日の標準化は、労働日の限界をめぐる闘争ー総資本家すなわち資本家階級と総労働者すなわち労働者階級とのあいだの闘争ーとして現れるのである。
  • 剰余労働への無制限な渇望が存在するのは資本主義だけです。・・・資本は、際限のない価値増殖欲求にしたがってどこまでも剰余労働を拡大しようとするのです。このような資本の残虐さは、前近代的な残虐さと結びつくとき、もっとも忌むべきものとして現れてきます。
  • 前近代の都市においてはツンフトやギルドという職人たちによる同職組合が形成され、自分たちの生産のあり方に厳しい統制を加えていました。・・・それゆえ、そこでは商品の販売が行われたとはいえ、価値の生産が主要な目的となることはありませんでした。ところが、このような同職組合が解体し、資本が生産活動に影響を及ぼすようになると、状況が一変してしまうのです。長時間労働や不純製造も、生産が価値の取得、剰余価値の取得を目的として行われるようになったことの結果にほかなりません。
  • 一日の二四時間全部にわたって労働をわがものにするということこそ、資本主義的生産の内在的衝動なのである。
  • ここに、夜間労働への渇望が生まれるのです。
  • 資本は、剰余労働を求めるその無際限な盲目的な衝動、その人狼的渇望をもって、労働日の精神的な最大限度だけではなく、純粋に肉体的な最大限度をも踏み越える。
  • 資本は労働力の寿命を問題にしない。資本が関心をもつのは、ただ、一労働日に流動化されうる労働力の最大限だけである。
  • どんな株式投機の場合でも、いつかは雷が落ちるにちがいないということは、誰でも知っているのであるが、しかし、だれもが望んでいるのは、自分が黄金の雨を受けとめて安全な場所に運んでから雷が隣人の頭に落ちるということである。大洪水よ、我が亡き後に来たれ!これが、すべての資本家、すべての資本家種族のスローガンである。それゆえ、資本は、社会によって強制されないかぎり、労働者の健康や寿命にたいし何らの顧慮も払わない。・・・自由競争が資本主義的生産の内在的な諸法則を個々の資本家にたいしては外的な強制法則として作用させるのである。
  • 資本家は資本の人格化として振る舞い、価値増殖をひたすらに追求することをやめることはできません。なぜなら、資本家はたえずほかの資本家との「自由競争」にさらされているからです。最大限の価値増殖を追求することを止めれば、彼は競争に敗れ、資本家として生きていくことができなくなります。・・・剰余価値の最大化という「資本主義的生産の内在的法則」が、個々の資本家にとっては、彼らの個人的意思とはかかわりなく貫徹する「外的な強制法則」として現れるのです。・・・誰がそれにグレー気をかけることができるのでしょうか。それは「社会」であり、とりわけ生きるために自分の労働力を守らなければならない賃労働者たちです。
  • 法律の背後には、それを必要とする社会関係があり、たいていの場合、階級闘争が潜んでいます。・・・制度や法則はけっして万能ではない・・・法律を資本家に守らせるためには労働者たちによる強力な労働運動が必要となります。・・・その根底には資本と労働の社会的闘争があることを見逃してはならないのです。
  • 「防衛」のために、労働者たちは団結しなければならない。そして、彼らは階級として、彼ら自身が資本との自由意志的契約によって自分たちの同族とを売り渡し死と奴隷状態とにおとしいれることを妨げる国家の法律を、非常に強力な社会的防止手段を奪取しなければならない。
  • 資本家は・・・市場における自由な取引の結果として、他人の労働を搾取し、剰余価値を取得することができます。ところが、じつはこれこそが、資本主義において、他のどんな社会よりも過酷な搾取が可能になる理由なのです。というのも、それによって、剰余労働を強制的にひきだすのではなく、相手の自発性にもとづいてひきだすことが可能になるからです。
  • もはや、労働者が生産手段を使うのではなく、生産手段が労働者を使うのである。生産手段は、・・・労働者を生産手段自身の生活過程の酵素として消費する
  • 生産手段、すなわち物象的な労働条件は労働者に従属するものとしては現れず、労働者がそれらに従属するものとして現れる。資本が労働を使用するのである。すでにこの関係がその単純なあり方において物象の人格化であるとともに人格の物象化である。
  • 労働日の延長によって生産される剰余価値を私は絶対的剰余価値と呼ぶ。これにたいして、必要労働時間の短縮とそれに対応する労働日の両成分の大きさの割合の変化とから生ずる剰余価値を私は相対的剰余価値と呼ぶ。
  • 生産力が上がると、それだけ生産物の価値は下がるのです。・・・生産力が上がれば、労働者の生活手段の価値が下がります。・・・生産力の上昇は労働力の価値を下げることになります。
  • この現実の価値は、・・・その商品の生産に社会的に必要な労働時間によって計られるのである。
  • どの個々の資本家にとっても労働の生産力を高くすることによって商品を安くしようとするという動機があるのである。
  • 商品を安くするために、そして商品を安くすることによって労働者そのものを安くするために、労働の生産力を高くしようとするのは、資本の内的な衝動であり、不断の傾向なのである。
  • 労働の生産力の発展による労働の節約は、資本主義的生産ではけっして労働日の短縮を目的としてはいないのである。それは、ただ、ある一定の商品量の生産に必要な労働時間の短縮を目的としているだけである。
  • 資本家の指揮は、社会的労働過程の性質から生じて資本家に属する一つの特別な機能であるだけではなく、同時にまた一つの社会的労働過程の搾取の機能でもあり、したがって搾取者とその搾取材料との不可避的な敵対によって生み出される。
  • 個々の労働者や労働者群そのものを絶えず直接に監督する機能を再び一つの特別な種類の賃労働者に譲り渡す。・・・監督という労働が彼らの専有の機能に固定されるのである。
  • 一生涯同じ一つの単純な作業に従事する労働者は、自分の全身をこの作業の自動的な一面的な器官に転化させ、したがって、多くの作業を次々にやってゆく手工業者に比べればその作業により少ない時間を増やす。・・・言い換えれば、労働の生産力が高められるのである。
  • マニュファクチュアはそれを根底から変革して、個人的労働力の根源を襲う。それは、生産的な衝動および素質のいっさいを抑圧し、労働者の細目的熟練を温室的に助長することによって、労働者をゆがめて一つの奇形物にしてしまう。
  • いまや、彼の個人的労働力そのものが資本に売られないかぎり役に立たない。・・・マニュファクチュア労働者は、・・・もはやただ資本家の作業場の附属物として生産的活動力を発揮するだけである。・・・分業はマニュファクチュア労働者に、彼が資本の所有物だということを示す刻印を押すのである。
  • 大工業においてはじめて人間は、自分の過去のすでに対象化されている労働の生産物を大きな規模で自然力と同じように無償で作用させるようになるのである。
  • 導入される機械の価値が、それを導入することによって削減することができる労働力の価値を下回る場合にだけ、機械は導入されるのです。ですから、労働者の賃金が異常に低かったり、労働日が異常に長かったりするなどの条件の下では、労働力に費やされるコストが低いのでなかなか機械が普及していかないということになります。
  • 新自由主義的」諸政策の本当の目的は、経済成長ではなく、社会保障なども含めた労働者の実質的な取り分を減少させることにより、剰余価値率を高め、利潤率の低下を補うことにあるのです。
  • 大工業における新たな固定的分業によって資本家への労働者の絶望的な従属が完成される。
  • マニュファクチュアのように生産が個々の労働者の技能や熟練に依存しているうちは、生産のイニシアチブは労働者の側にあり、また、代わりの労働者を雇うことも容易ではありませんでした。ところが、大工業においては労働者は機械体系の補助として必要とされるのみであり、生産のイニシアチブは機械体系のほうにあります。また、代わりの労働者を雇おうことも容易でしょう。こうして、賃労働者たちは技術的にも生産手段に従属するようになってしまいます。
  • 機械経営は外国市場を強制的に自分の原料の生産場面に変えてしまう。・・・大工業の諸国での労働者の不断の「過剰化」は、促成的な国外移住と諸外国の植民地化とを促進し、・・・機械経営の主要所在地に対応する新たな国際的分業がつくりだされて、・・・
  • 工業制度の巨大な突発的な拡張可能性と、その世界市場への依存症とは、必然的に熱病的な生産とそれに続く市場の過充とを生みだし、市場が収縮すれば麻痺状態が現れる。産業の生活は、中位の活況、繁栄、過剰生産、恐慌、停滞という諸時期の一系列に転化する。機械経営が労働者の就業に、したがってまた生活状態に与える不確実と不安定は、このような産業循環の諸時期の移り変わりに伴う正常時となる。繁栄期を除いて、資本家のあいだでは、各自が市場で占める領分をめぐって激烈きわまる闘争が荒れ狂う。この領分の大きさは、生産物の安さに比例する。そのために、・・・どの循環でも、労賃をむりやりに労働力の価値よりも低く押し下げることによって商品を安くしようとする努力がなされる一時点が必ず現れる。
  • 資本主義的生産は、それによって大中心地に集積される都市人口がますます優勢になるにつれて、一方では社会の歴史的動力を集積するが、他方では人間と土地とのあいだの物質代謝を攪乱する。すなわち、人間が食料や衣料の形で消費する土壌成分が土地に変えることを、つまり土地の豊饒性の持続の永久的自然条件を、攪乱する。したがってまた、それは都市労働者の肉体的健康と農村労働者の精神生活を同時に破壊する。
  • ほんらい労働とは人間と自然との物質代謝を媒介し、規制し、制御する行為のはずでした。ところが、資本主義的生産においては、この物質代謝を規制するはずの労働が、賃労働という特殊な形態をとり、資本の価値増殖を目的として行われるために、逆に持続可能な物質代謝を攪乱してしまうのです。
  • マルクスは価値増殖を最優先する資本主義的生産関係のもとでは、人間と自然との持続可能な物質代謝を可能にする合理的な生産力を実現することができないということを問題としたのです。だからこそ、資本主義は変革されなければならないし、むしろ変革されなければ自然も人間も破壊されてしまい、生きていくことはできないという意味で、人間たちはその変革を強制される。これがマルクスにとってもっとも根本的な変革の根拠だったのです。
  • 資本は、賃労働者から労働力を買うことで、賃労働者にたいする指揮命令権を獲得し、労働過程を自らの価値増殖活動にしたがわせます。マルクスはこれを「資本のもとへの労働の形態的包摂」と呼んでいます。・・・資本は労働過程を技術的に変革することをつうじて、労働過程を技術的な次元でも自らの支配下に置きます。これが、「資本のもとへの労働の実質的包摂」です。・・・資本は分業を組織することによって、労働者の作業を一面化・単純化し、労働者を分業に組み入れられることによってした生産できない存在へと変え、・・・
  • 労働日がある限界を超えると労働力の消耗が急速に進み、その価値も急激に増大するので、名目的な労賃が増えたとしても、労働力の価値を下回ることがある。
  • 私たちは労働力の再生産費と引き換えに、自分の生活に必要な範囲を超える労働を強制されているのです。・・・資本が労働力の購買によって賃労働者に剰余労働を強制し、剰余価値を絞り出しているというのが事柄の本質なのです。
  • 資本主義的生産は、それがいったん成立するやいなや、再生産過程をつうじて、自らの前提条件である生産手段と労働力の分離をも絶えず再生産するのです。・・・この再生産がまさに特殊な様式での労働、すなわち賃労働によって可能になっているということです。・・・資本家は、そのような賃労働者自身が生み出した、賃労働者を「支配し、搾取する力」によって賃労働者を支配し、従属させ、労働力と生産手段の分離を生産するのです。・・・物象化を克服するには、それを生み出す私的労働をアソシエーションにおける共同的な労働に置き換えなければならないことが示唆されていました。・・・賃労働を生産手段との結びつきを回復した自由な労働に置き換えなければならないことが示されていると言えるでしょう。
  • 資本主義的生産様式における生産の主体は資本であり、この資本の運動こそが人々が労働できるかどうか、どのような条件で労働できるかを規定するのです。・・・この物象化が資本蓄積においても貫徹していることがわかります。すなわち人間が自らの産物である物象に支配されるという転倒が、私たちの生活の再生産過程において、貫徹するのです。資本蓄積によって私たちの再生産過程はますます資本主義に包摂され、資本主義的再生産過程に転化させられていきますから、このことは社会全体において資本が主体であり、人間たちが客体であるという転倒が貫徹していくということを意味します。
  • 資本は労働者をたえずより大きな規模で雇用しながら、彼らをたえず失業させることによって彼らの賃金をある一定の範囲に押さえ込み、失業者との競争の圧力をつうじて就業労働者にたいしてさらなる長時間労働を強制します。このような長時間労働はさらなる失業者を生み出すでしょう。こうして、「資本の専制」が完成するのです。
  • 資本主義的生産様式の必然的産物である近代国家の力によってこの資本主義社会の矛盾を根本的に解決することはできないのです。その矛盾を根本的に解決するには資本主義的生産様式そのものの変革が必要であり、・・・それを変革する力の源泉は、なによりも労働する個人による結社、すなわちアソシエーションの形成にあります。・・・労働者たちが長時間労働に縛り付けられ、生産的な知を奪われて従属的に労働させられ、失業や半失業の恐怖におびえながら資本の先生に屈服しているような状態では、労働者たちがアソシエーションを形成する動きを活性化させていくことは非常に困難です。このような意味で、制度の改良をめざす闘争は資本主義的生産様式の変革にとってきわめて重要な意味を持つと言えるでしょう。
  • 資本の本源的蓄積、すなわち資本の歴史的生成は、どういうことに帰着するであろうか?・・・それが意味するものはただ直接的生産者の収奪、すなわち自分の労働にもとづく私的所有の解消にほかならない。
  • 私的所有は小経営の基礎であり、小経営は社会的生産と労働者の自由な個性の発展のための必要条件である。
  • 自己労働にもとづく私的所有は滅ぼされ、分散的な生産手段は資本のもとに集中される
  • 生産手段の集中と労働の社会化は資本主義的な外皮とは調和できなくなる一転に到達する。この集中、すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪と手を携えて、ますます大きくなる規模での労働過程の協業的形態、科学の意識的な技術的応用、土地の計画的利用、共同的にしか使えない労働手段への労働手段の転化、結合的社会的労働の生産手段としての使用によるすべての生産手段の節約、世界市場の網のなかへの世界各国民の組入れが発展し、したがってまた資本主義体制の国際的性格が発展する。この転化過程のいっさいの利益を横領し独占する大資本家の数が絶えず減ってゆくのにつれて、貧困、抑圧、隷属、堕落、搾取はますます増大してゆくが、しかしまた、絶えず膨張しながら資本主義的生産過程そのもののメカニズムによって訓練され結合され組織される労働者階級の犯行もまた増大してゆく。資本独占は、それとともに、またそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏となる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一転に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私的所有の最期を告げる金が鳴る。収奪者が収奪される。
  • 現代の資本主義システムは、マルクスの時代とは比べものにならないような規模にまで拡大し、生産力の発展もすさまじい水準に到達しています。・・・マルクスがここで描き出した資本主義と生産力との矛盾、資本主義と科学との矛盾、資本主義と人間との矛盾、資本主義と物質代謝との矛盾が、世界レベルでの極端な格差の拡大、貧困の拡大、世界中で周期的に発生する金融危機、地球規模での気候変動などとして、未曽有の規模で私たちの眼前に現れてきているのです。
  • 資本主義的生産は、一つの自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を生みだす。それは否定の否定である。この否定は、私的所有を再建しないが、しかし、資本主義時代の成果———すなわち、協業と土地の共同占有と労働そのものによって生産される生産手段の共同占有———を基礎とする個人的所有を再建する。
  • 資本主義のもとでの社会の存続が困難になるほどまでに生産力が増大すると、やがて資本主義的生産様式は変革されざるをえなくなります。こうして、資本主義時代の生産力の発展、労働の社会化、そして資本主義への対抗をつうじて生み出されたアソシエーションを基礎として、個人的所有が再建されます。所有の主題た国家や社会ではなく、自由なアソーシエイトによって人格的に結びついた自由な諸個人です。・・・こうして、私的労働と賃労働という労働形態は廃絶され、したがって資本主義的生産様式も廃絶されます。誕生するのは、自由な諸個人のアソシエーションにもとづく社会です。

金閣寺(三島由紀夫)

  • 父によれば、金閣ほど美しいものは地上になく、また金閣というその字面、その音韻から、私の心が描きだした金閣は、途方もないものであった。
  • 私はその事件を通じて、一挙にあらゆるものに直面した。人生に、官能に、裏切りに、憎しみと愛に、あらゆるものに。そうしてその中にひそんでいる崇高な要素を、私の記憶は、好んで否定し、看過した。
  • 私は今まで、あれほど拒否にあふれた顔を見たことがない。私は自分の顔を、世界から拒まれた顔だと思っている。しかるに有為子の顔は世界を拒んでいた。
  • 後年、父の出棺のとき、私がその死顔を見るのに急で、涙ひとつこぼさなかったことを想起してもらいたい。その死と共に、掌のきはんは解かれて、私がひたすら父の顔を見ることによって、自分の生を確かめたのを想起してもらいたい。
  • 「いつかきっとお前を支配してやる。二度と私の邪魔をしに来ないように、いつかは必ずお前をわがものにしてやるぞ」
  • 私はこの時ほど現生を完全に見捨てた人の顔を見たことがない。生活の細目、金、女、あらゆるものに一々手を汚しながら、これほどに現世を侮蔑している人の顔を見たことがない。‥‥私は血色のよい温かみのある屍に触れたような嫌悪を感じた。
  • それは正しく裏日本の海だった!私のあらゆる不幸と暗い思想の源泉、私のあらゆる醜さと力との源泉だった。
  • 突然私にうかんで来た想念は、・・・・・その想念とは、こうであった。「金閣を焼かなければならぬ。」
  • 私は幸福に充たされて、一時間も闇の中に坐っていた。生まれてから、この時ほど幸福だったことはなかったような気がする。
  • 私は煙草を喫んだ。一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。