実力も運のうち 能力主義は正義か?(マイケル・サンデル)

  • 労働の尊厳はむしばまれ、多くの人がエリートに見下されていると感じるようになってしまったのだ。グローバリゼーションの勝者は自力で勝ち取ったのだからそれに値するという信念は、正当なものだろうか。それとも、能力主義に基づく思い上がりだろうか。エリートに対する怒りが民主主義を崖っぷちに追いやっている時代・・・選別や競争を超えた共通善を追求することなのかを問う必要がある。
  • この数十年にわたるう労働者の経済的・文化的地位の低下は、・・・・主流派の政党とエリートによる統治手法の帰結なのだ。
  • 能力や「値する」といった言葉が公的言説の中心を占めるようになってきた。・・・社会保障制度を抑制し、リスクを政府や企業から個人へ移そうという試みがなされてきた。・・・出世のレトリックとでも言うべきもの、つまり、懸命に努力し、ルールに従って行動する人々は、才能と夢が許すかぎりの出世に値するという保障である。
  • 1980年代以降、社会保障制度をめぐる論争は、連帯よりも、恵まれない人びとは自らの不幸にどこまで責任があるかという点をテーマとするようになった。・・・コミュニティが手を差し伸べるのは、その人の不幸が本人の落ち度ではない場合に限られる。
  • われわれは自分の運命に責任を負っており、自分の手にするものに値する存在だというメッセージを繰り返すことは、連帯をむしばみ、グローバリゼーションに取り残された人びとの自信を失わせる。第二に、大卒の学位は立派な仕事やまともな暮らしへの主要ルートだと強調することは、学歴偏重の偏見を生み出す。それは労働の尊厳を傷つけ、大学へ行かなかった人びとをおとしめる。
  • 労働者階級の不満に真剣に立ち向かおうとするなら、公共文化に浸透したエリートによる蔑視や学歴偏重の偏見と闘わなくてはならない。また、労働の尊厳を政治課題の中心に据えるべきだ。
  • 社会が労働に名誉と報いをどう与えるかは、共通善をどう定義するかという問題の核心だ。
  • ロバート・F・ケネディは、・・・失業の痛みは、たんに失職により収入を絶たれることではなく、共通善に貢献する機会を奪われることだ。「失業とは、やることがないということーそれは、ほかの人たちと何の関係も持たないということです。」
  • 現代のリベラル派は、労働者階級と中産階級有権者に、分配的正義を増すことを提案してきた。つまり、経済成長の果実をもっと公平に、もっと十分に手に入れられるようにすることを提案したのだ。しかし、有権者がそれより欲しがっているのは、より大きな貢献的正義ー他人が必要とし重んじるものをつくり出すことに伴う社会的な承認と評価を得る機会なのである。
  • 金融は、いかに好調であっても、それ自体は生産的でない。金融の役割は社会的に有用な目的——新しい企業、工場、道路、空港、学校、病院、住宅など――に資本を割り当てて経済活動を円滑にすることだ。ところが、・・・経済をより生産的にする働きは何もしていない。・・・・金融活動は、経済価値をもたらすのではなく、実体経済からレント(正当化されない超過利潤)を搾り取っている可能性がある。
  • なぜ資本利得による所得にかかる税率が労働所得のそれよりも低いのか?
  • 給与税の一部あるいは全部を金融取引税で置き換える――実質的には、実体経済にとって無益な賭博めいた投機に「悪行税」を課す――という私の提案・・・
  • 多様な職業や地位の市民が共通の空間や公共の場で出会うことは必要だ。なぜなら、それが互いについて折り合いをつけ、差異を受容することを学ぶ方法だからだ。また、共通善を尊重することを知る方法でもある。
  • われわれはどれほど頑張ったにしても、自分だけの力で身を立て、生きているのではないこと、・・・自分の運命が偶然の産物であることを身にしみて感じれば、ある種の謙虚さが生まれ、・・・・われわれを分断する冷酷な成功の倫理から引き返すきっかけとなる。能力の専制を超えて、怨嗟の少ない、より寛容な公共生活へ向かわせてくれるのだ。